イスラーム映画祭7|二つのロザリオ|Wrong Rosary



ゴールデンウィークの神戸の風物詩、イスラーム映画祭。上映作品のセレクトが素晴らしいのはもちろん、トークセッション(予定がいつも合わず参加できないけど)も充実していて、こんな企画を個人で主宰し続けておられることに頭が下がります。


『二つのロザリオ』は2009年のトルコ映画で、当時、ロッテルダム国際映画祭や東京国際映画祭で上映されたようです。イスラーム映画祭でも過去に取り上げられていますが、今回はアンコール上映となっていました。


イスタンブル(イスタンブール)にやってきたイスラム聖職者(礼拝時の呼びかけ=アザーンをする人、ムアッズィンと呼ぶ)のムサは、アパートの隣人クララに恋をしてしまう。クララはキリスト教徒なので、ムサは愛を告白することができない。彼女の落とし物(ここがタイトル『二つのロザリオ』につながっています)を届けようと教会に向かったムサは、古書を収集する老人ヤクプに出会う。オスマン語(古いトルコ語)を理解できるムサはヤクプの手伝いをするようになり、二人は絆を深めていく。実はヤクプはクララの境遇に深く関わりのある人物だった。


…というのがあらすじなんだけど、大人のロマンスと呼んでいいのか、確かに宗教の違いという大きな壁があるものの、ムサもクララも控え目な性格で見ててもどかしい。クララが着た白いワンピースは勝手にウエディングドレスを連想。修道女として生きると決めたけど、憧れはあったのかな、とか。老人ヤクプの秘めた過去も含めて、トルコの宗教・民族の多様性、歴史にいろいろと思いを巡らせる作品でした。


本作は他国の資本が入っていない純トルコ産映画ということを上映前の解説で聞きましたが、トルコの人が見れば理解できることなのか、それとも監督の作風なのか、少々わかりづらい部分も。冒頭、ムサがお菓子を買って、車(タクシー)の中で子どもに与えるシーンがあったので、すっかり彼の家族だと思っていたら独身という設定だったこと。クララが写真とアルバムを整理するシーンが繰り返されるが、それが意味するもの。寝たきりの高齢者介護を支援する制度はないの?などなど。


ムサが宗教学校で習得したというオスマン語は、オスマン帝国時代に使用された言語で、ペルシア語・アラビア語の影響を受けたものだそう(広辞苑調べ)。13世紀から続いたオスマン帝国が滅亡し共和国が成立した後も(高校の世界史の授業で、初代大統領ケマル・アタテュルク習ったなぁ)、何度もクーデターを経てきたトルコの現代史が、ヤクプの人物設定の背景にあります。イスタンブルの街並み、ムサが海を前にたたずむシーンが何度も登場し、旅心が大いにくすぐられました。


イスラーム映画祭は、観客と一緒に映画を楽しみ、一緒に学んでいこうという主宰者の姿勢がとても好きです。もっと規模の大きい映画祭はたくさんあるけど、何のためにやってるの?と感じることもあり、そこが決定的に違うと思う。いつも1〜2作品見るのがやっとですが、毎年の楽しみです。


会場となっている元町映画館も、商店街の一画にあるミニシアターで、通りを行き交う人たちが偶然、映画や映画館に出会えるというロケーションが素晴らしいなと。早めに行って整理券をもらってから、すぐ近くの「こうべまちづくり会館」で開場まで時間を潰したり(電源あり、オススメ)、「元町ケーキ」や「ベニマン」に立ち寄ったり。裏通りを歩いたり。まさに「映画祭ぐるぐる」できるのが、神戸のイスラーム映画祭の魅力かも。


『二つのロザリオ|Wrong Rosary|Uzak Ihtimal(はかない期待)

2009年/トルコ

監督:マフムト・ファズル・ジョシュクン

予告編はこちら


★参考:「トルコ映画祭2014」で、2009年東京国際映画祭で上映された『二つのロザリオ』に再会